慶長二年一一月八日 「うさ太!」 釜山日本本営にて加藤清正が唐突に僕の肩に腕をかけてきた。 「囲ってた朝鮮の娘に逃げられたんだってえ~!」 横から黒田長政も絡んできた。 「うさ太が普通の男で安心した。」 「隅におけない青… [続きを読む]
4月29日 朝鮮高官の娘・ソヨンと共に逃走した、毛利の裏切り者。 その名は萱島(かやしま)木兵衛元規(もとのり)。 無名の武将というわけではなかった。 彼は僕の身の回りの世話をし、いくさとなれば兵を束ねる勇敢な毛利の部将… [続きを読む]
1月18日 ソヨンがいなくなった釜山本営の自分の部屋に久しぶりに戻った。なんとなく机の引き出しを開けると、玉のように光輝く淡い緑色の指輪と文が入っていた。 文は、ソヨンと共に逃走した裏切りの毛利の者からだった。 「私は四… [続きを読む]
11月10日 釜山倭城の僕の部屋に在った両班の娘がいなくなったので、僕は城外に出て彼女を探そうとした。 「日本軍総帥たる方が、なりませぬ。ここは我々にお任せを。」 家臣の宍戸元継が僕の腕を取った。 「ならば総帥を下りても… [続きを読む]
9月22日 朝鮮再出兵となり日本軍は、首都漢城(ソウル)侵入を目指して北上。しかし忠清道・稷山で明本隊である経略楊鎬軍の迎撃を受けて、多くの犠牲者を出した。 作戦変更を余儀なくされ、釜山日本本営で諸将らと今後を話し合った… [続きを読む]
7月20日 僕は最近、馬小屋で寝ている。 釜山日本本営の僕の部屋には朝鮮の女の子がいるからだ。どうしてこんなことになってしまったんだろう。本当に信じられない、いい加減にしてほしい。 それにしても彼女をこの釜山日本本営から… [続きを読む]
5月12日 職を解かれていた李舜臣が、朝鮮水軍司令官として復帰すると日本水軍を撃破した。制海権を朝鮮側に握られ、日本勢は帰国することも困難になった。 今後どうすべきか、釜山日本本営で軍議が夜更けまで行われ、疲れ果てて自分… [続きを読む]
2月18日 黒田軍と我が毛利軍は、首都ソウル(漢城)侵入を試みるも、忠清道・稷山(チクサン)で明軍の迎撃にあった。激戦のうえ、敵・味方ともに犠牲者を多く出し、決着がつかなかった。黒田・毛利軍は稷山から南下して、釜山日本本… [続きを読む]
10月20日 ソウルへの再侵入を目指し北上した黒田長政軍と我が軍は、これを阻止すべく待ち受けていた明軍と忠清道・稷山(チクサン)の戦いで戦闘となった。 双方ともかなりの死傷者を出し、決着はつかず、日暮れになって両軍とも引… [続きを読む]
8月26日 世界は絶望的なことが絶え間なく続いているように見える。まるでそこに僕らが入り込むことを奨励しているようだ。 だから僕らはいつしか、悪びれたもの勝ちなのだと勘違いし始めた。 実際、他国に侵入して放火、強盗、人身… [続きを読む]
4月25日 毛利隊が全州から首都ソウルを目指して北上する途中、同じく首都ソウルを目指して北上する黒田隊の者が毛利隊に駆け込んで来た。 「黒田隊、忠清道・稷山(チクサン)において明の部隊と衝突。恐れながら急ぎ、救援に駆け付… [続きを読む]
2月9日 全羅道・全州(チョンジュ)の宮殿の片隅でうずくまっていた僕に、 「どうされました?」 と朝日を背後に一人の僧が僕に声をかけた。 「あなたは?」 と僕は尋ねた。 「初めてお目にかかります、安芸宰相様。私は太田一吉… [続きを読む]
12月14日 日本軍が慶尚道・黄石山城と全羅道・南原城を落として、全羅道・全州で宴を開催。 精鋭部隊だろうか、朝鮮軍数人がその夜、闇に紛れて全州日本陣営に侵入。 その中に降倭・沙也可がいて、僕は刀を抜いて彼の刀と相対した… [続きを読む]
10月25日 日本軍は今年、朝鮮へ再出兵し、慶尚道・黄石山城と全羅道・南原城を陥落させた。これを祝うため全羅道・全州(チョンジュ)で宴が開かれた。 その夜、僕は本国の輝元公からの文で二人の父の死を知った。 僕は一人、全州… [続きを読む]
9月12日 僕には二人の父がいた。 一人は実父・穂田元清、もう一人は伯父・小早川隆景。 二人は毛利元就の子で母は違えど、仲のよい兄弟だった。 宗家当主・輝元公には、子ができなかったので、輝元公補佐役の伯父上… [続きを読む]
8月10日 日本軍は今年、朝鮮へ再出兵し、この夏に慶尚道・黄石山城と全羅道・南原城を陥落させた。これを祝うため真っ昼間から全羅道・全州(チョンジュ)で宴が開かれた。 戦功の証として、朝鮮の老若男女から削いだ鼻は数知れず。… [続きを読む]
6月28日 慶長の役が始まって二か月余り。 僕を総帥とする右軍の先鋒将・加藤清正は、慶尚道・黄石山城を陥落させ、ほぼ同じ頃、宇喜多秀家殿を総帥とする左軍は南原城を陥落させた。 このあと右軍と左軍は、全羅道・全州(チョンジ… [続きを読む]
毛利秀元くんの日記:第5回 自分らしく生きたくて死にそうだ。
5月19日 日本人一人につき朝鮮人の鼻三つ―― これが慶長の役において太閤様より我々に課せられた義務だ。 生真面目な僕ら侍たちは、この義務を果たすのに必死だった。 釜山に上陸後、僕の軍は首都ソウルを目指し北… [続きを読む]
4月5日 僕はそう、朝鮮へ遊びに来たのではなかった。 日本軍再出兵の際、我々は太閤様より厳命を受けていた。 「ことごとく、かの国人(朝鮮人)を殺し、かの国(朝鮮)を空地となさん。」 ――と。 僕・秀元を総帥としてソウルを… [続きを読む]
3月17日 太閤秀吉様の命で朝鮮再出兵となり、釜山(プサン)日本本営には一四万の日本軍が着陣。 総大将の小早川秀秋殿は釜山に留めて、宇喜多秀家殿を総帥とする左軍は穀倉地帯の南部・全羅道へ。僕・秀元を総帥とする右軍は、都・… [続きを読む]
3月1日 太閤秀吉様の命で朝鮮再出兵となり、僕は八番隊として宇喜多秀家殿と共に朝鮮へ渡海。釜山(プサン)日本本営には一四万の日本軍が着陣した。 これら日本全軍を左右に分け、宇喜多秀家殿を総帥とする左軍は、穀倉地帯の南部・… [続きを読む]
2月15日 初めまして。 毛利元就の四男・元清が嫡男・秀元と申します。数えで19歳に相成ります。 先日、我が殿・輝元公は広島城に僕を呼び出しました。そして、 「日本と明の和平交渉が決裂した。その為、太閤殿下は朝鮮再出兵を… [続きを読む]