豊臣秀吉くんの日記:第74回 二度目の失敗
天正一九年二月四日
「二度も失敗するつもりか――」
京都柴野大徳寺の山門の下。
大谷吉継の問いに、
「どうかな。」
石田三成は、山門上の利休の木像を仰ぎながら答えた。
「一度目の失敗は政宗の小田原参陣で、二度目は政宗の上洛――」
「政宗は赦されたわけではない。事実当人も、陳じ損ぜば二度奥州へ下さじとて、金箔の磔付の柱を引っ提げて米沢を発ったと聞く。」
「何か手は打ってあるのか。」
「何もないが――知っているか。この大徳寺は、応仁・文明の大乱に焼失したが、堺の豪商らの支援をうけた一休宗純によって復興された。そして山門は連歌師宗長らが造営したが、なお単層であった。」
「今は重層であるな。」
「一年半前に利休居士(こじ)が、二層にしようとし山門を修造。「金毛閣」の扁額も掲げられた。」
「何か問題でも。」
「実は大徳寺によって、山門閣上内に利休の木像が安置されている。
しかし勅使をはじめ太閤殿下でさえも、その山門の下を通る礼である。貴人たちの通る頭上に、御茶頭・千利休の木像を掲げるとは不敬ではないか。」
「今更誰がそんな――」
「つまらない噂だ。」
「大和大納言(秀長)が亡くなったばかりというに…」
「何も変わらない。自分が無力で、こんなにも嫉妬深いとは思わなかった。」
「蒲生氏郷によれば、そなたは葛西・大崎一揆と通じ、謀反を起こした。間違いないか。」
京・聚楽第において、わしは上洛した伊達政宗に問いただした。
「恐れながら、全ぐの誤解にございます。」
政宗は頭を下げた。
「ならばこれは何だ。」
わしは謀反の疑いの証拠として、政宗の命令書を示した。
「その筆跡の似せ方は、実に巧妙で弁解の余地さありませぬが、花押は贋(にせ)物でがす。
私政宗が表向きな書状に用いるは、鶺鴒(せきれい)形の花押。それには必ず針で小穴さあけてあります。しがし、その書状にはそれがねがす。」
わしは政宗の花押を一瞥した。
「そなたの痛快さには、頭が下がるわ。」
政宗はひれ伏したまま、わしは立ち上がり、
「追って沙汰を下す。」
と扇子で政宗の肩を叩いた。
カテゴリ:豊臣秀吉くんの日記 | 2024-10-31 公開
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