第二部 侍韓流ドラマ

戦国デイズ – 武将たちの日記

豊臣秀吉くんの日記:第74回 二度目の失敗


豊臣秀吉天正一九年二月四日

二度も失敗するつもりか――

京都柴野大徳寺の山門の下。

大谷吉継の問いに、

どうかな。

石田三成は、山門上の利休の木像を仰ぎながら答えた。

一度目の失敗は政宗の小田原参陣で、二度目は政宗の上洛――

政宗は赦されたわけではない。事実当人も、陳じ損ぜば二度奥州へ下さじとて、金箔の磔付の柱を引っ提げて米沢を発ったと聞く。

何か手は打ってあるのか。

何もないが――知っているか。この大徳寺は、応仁・文明の大乱に焼失したが、堺の豪商らの支援をうけた一休宗純によって復興された。そして山門は連歌師宗長らが造営したが、なお単層であった。

今は重層であるな。

一年半前に利休居士(こじ)が、二層にしようとし山門を修造。「金毛閣」の扁額も掲げられた。

何か問題でも。

実は大徳寺によって、山門閣上内に利休の木像が安置されている。

しかし勅使をはじめ太閤殿下でさえも、その山門の下を通る礼である。貴人たちの通る頭上に、御茶頭・千利休の木像を掲げるとは不敬ではないか。

今更誰がそんな――

つまらない噂だ。

大和大納言(秀長)が亡くなったばかりというに…

何も変わらない。自分が無力で、こんなにも嫉妬深いとは思わなかった。

 

大徳寺山門

大徳寺山門

蒲生氏郷によれば、そなたは葛西・大崎一揆と通じ、謀反を起こした。間違いないか。」

京・聚楽第において、わしは上洛した伊達政宗に問いただした。

恐れながら、全ぐの誤解にございます。

政宗は頭を下げた。

「ならばこれは何だ。」

わしは謀反の疑いの証拠として、政宗の命令書を示した。

その筆跡の似せ方は、実に巧妙で弁解の余地さありませぬが、花押は贋(にせ)物でがす。

私政宗が表向きな書状に用いるは、鶺鴒(せきれい)形の花押。それには必ず針で小穴さあけてあります。しがし、その書状にはそれがねがす。

わしは政宗の花押を一瞥した。

「そなたの痛快さには、頭が下がるわ。」

政宗はひれ伏したまま、わしは立ち上がり、

「追って沙汰を下す。」

と扇子で政宗の肩を叩いた。

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