豊臣秀吉くんの日記:第67回 弟・秀長からの諫言
天正一八年一一月二三日
今日は雲一つない蒼天で、側室や臣の者らを連れて、久々に聚楽第の庭を巡った。
池に架かる橋の上に立つと、魚たちは跳ね躍(おど)って水面に波紋が広がった。
供の者らが何やら、ざわつきはじめた。
橋の向こうに目をやると、弟の小一郎(秀長)が立っていた。
久しぶりにのんびり皆と楽しんでおったのに、水を差された気分だった。
「お人払いを。」
小一郎の言葉を聞いて、供の者らは速やかに退き、蒼天の下、兄弟二人だけになった。
「高麗へ出兵なさるおつもりか。」
突然、小一郎は片手で紙をわしに突き出した。
「朝鮮国王への返書に唐入りを明言し、これを以って公けにしてしまったとは――」
「だから何じゃ。」
小一郎の手にするは、返書の写しであった。
「唐入りは母上(大政所)もよく思っておられぬ。」
「お鶴(鶴松)が生まれたのじゃ。」
「そのずっと前から唐入りの噂は立っていた。」
「大政所(おおまんどころ)様にはわしからよ~~言って聞かす。」
「そう、兄者(あにじゃ)はまごうかたなき”なか”(大政所)の子。日輪の子って何なんだ。」
「日輪の子の生みの親――則ち返書を書いたは、相国寺禅僧・西笑承兌(しょうたい)。吾(われ)は第五〇世・鹿苑僧録(ろくおんそうろく)であって命(めい:辞令)を為(つく)るところあり、と親ら買って出てたのだ。」
「鹿苑僧録って…足利義満の時代でもあるまいし、室町殿(幕府)も滅亡し、まだそのような職があるか。」
「則ち相国寺を立て直したいのじゃろ。」
「天下を取って気付いたことがある。善からぬ人間が近付いてくるということだ。」
「これからは承兌や三成など、文や算に通じる者が必要と思わぬか。」
「予(われ)に逆らわぬ者の間違いだろ。」
「そなたは九州征伐の際も、わしに相談もなく勝手に島津家久と話をつけおった。」
「この秀長の目の黒いうちは、唐入りなど言語道断。」
「誰か、だれかおらぬか!」
木々の影から幾人かが飛び出し、小一郎の腕をつかんだ。
「何をする、離せ!」
「連れて行け。」
「家名を穢(けが)す気かあああ!!」
塵一つない蒼天に、小一郎の声だけが空しく響き渡った。
カテゴリ:豊臣秀吉くんの日記 | 2024-03-31 公開
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