豊臣秀吉くんの日記:第57回 藤原惺窩、現る
天正一八年八月五日
「ようやく小田原は片付いた。」
小田原合戦おいて、北条家宿老筆頭・松田憲秀(のりひで)は豊臣方に内応し、離反を企てた。また上野(こうずけ:群馬県)の松井田城将・大道寺政繁は降伏して、逆に豊臣軍の案内訳をつとめた。
あまつさえ彼らは、主戦派の北条氏政・氏照を支持していたらしい。わしは松田憲秀と大道寺政繁に切腹を命じた。
小田原の開城はさしたる混乱もなく行われ、数万の城兵が下城、諸方面に散っていった。当主の氏直は、家康公の姻戚関係ということで助命してやった。
「奥州へ向かうぞ!」
わしが軍配を振ると、
「オオ~ッ!!」
臣下の者たちから雄叫びが起こった。
「これまたいかに。」
わし側近・浅野長吉(長政)一人、行く手を阻んだ。
「小田原攻めに参陣しなかった葛西晴信・大崎嘉隆ら、奥羽の諸大名を成敗するために決まっておろう。」
「然しながら朝鮮から来日した通信使が三ヶ月余り、殿下の帰還を京にてお待ちしております。」
「通信使?」
「殿下自ら対馬の宗義智殿にお命じになった…」
「ああ、あれかッ!」
「よもやお忘れでありましたか!?」
長吉は後ろにひっくり返りそうになった。
「忘れておった。」
わしは悪びれもなく答えた。
「最初に命じたのはいつであったか…」
「確か宗氏の家臣・橘康広を朝鮮に送り、通信使派遣を要請したのが三年前…」
「その後もわしが再三要請しても、朝鮮もまた無視し続けてきた。わしが三年も待ったのだから、あと数ヶ月待たせてもバチは当たるまい。」
「承知いたしました。それでは私は先に帰洛して、ことの旨を義智殿にお伝え…」
「そちもわしと共に下向するのだ。」
「しかし対馬との交渉は常に私が…」
「京には秀長と利休がおる。来るのじゃ。」
「ははあ!」
わしは宇都宮に向かって、小田原を出立した。
「対馬の、宋義智殿でございますか。」
朝鮮通信使が宿泊している京・大徳寺に現れたのは、わしではなく――相国寺の僧・蕣首座(しゅんしゅそ)三〇歳。則ちのちの藤原惺窩(せいか)であった。
カテゴリ:豊臣秀吉くんの日記 | 2023-05-31 公開
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