豊臣秀吉くんの日記:第39回 都承旨・趙仁後の提案


豊臣秀吉天正一七年八月二二日

高麗(朝鮮)王・宣祖三八歳は、都承旨(トスンジ/王の秘書室長)趙仁後(チョ・イヌ)五〇歳に言う。

日本の通信の求めに、我が国は常に海路難(かた)きなり、とした。故に秀吉は、対馬の子(宋義智)を遣わして『これ(義智)をもって日本の案内とせん』と言う。

これは我が国の口をふさぎ、更に日本へ通信派遣を断ることはできない、という意味だ。両国の交際は行ったり来たりとして、礼に答えないことはない。どうして今回においてのみ一向に顧みないのか。

当(まさ)にこれに趙仁後答えて言う。

丁亥(一五八七年)正月、日本に新王(後陽成天皇)が国に君臨しました。

しかるに二月に賊倭船数十あって(全羅道高興郡)損竹島を荒らし乱し、人民を殺しました。

損竹島のことは、天皇がいまだ必ずしもことごとく知る所ではないといえど、海上侵入する賊を厳禁することも、一定の刑罰を明示することも能わず。かつて言われた天皇の仁と武勇は、今ではすなわちこのようです。

そののち賊中より逃げ帰る者は、一再に止まらず。これらの者は『日本の五島島主は、平戸島主と共に朝鮮の沙乙浦同の謀りを受け入れて、呼び集めて荒らし乱し弊害をつくります』云々と等しく言うようです。

天皇もし信義をもって、あつく隣好を結ぼうと欲するならば、即ちよろしく二島の主および沙乙浦同に与(くみ)した賊徒のかしら四五人を我が国に縛り送るべきです。

捕虜の民を還(かえ)したならば、我は即ち使(つか)いを遣わせて、その厚意を謝してその誠に答える。思いがけずの遣使ではない。額を地につけて敬礼し、宝物を逆賊の庭に献じる。

天皇はもし我がことばに従わなければ、即ちこの不正は彼にあり。大臣・備辺司・礼曹は熟議して、もって申せ。

 

趙仁後

都承旨・趙仁後

初めてお目にかかります。

知るよしもない。

小田原より参上仕りました、北条氏直が名代、氏規(うじのり)と申します。

天子様と予とを混同している。

「待っていたぞ。」

漢城(ソウル)の宗義智は、朝鮮王からの回答を待っている。

聚楽第にて、予の前にひれ伏す坂東(関東)の田舎侍。

知るよしもない。

高麗王の論議はいつまで続くのかなど――

前後の日記

«

ランダムデイズ

関連トピック