加藤清正くんの日記:第42回 義兵将・鄭文孚(チョンムンブ)
6月5日
わしは最近、朝鮮人を見直しし始めていた。
太閤殿下の命により、日本軍が朝鮮へ侵攻。首都ソウルを制圧すると、清正軍は朝鮮東北・咸鏡道(ハムギョンド)に侵入。
咸鏡道会寧(フェリヨン)の役人・鄭末守(チョンマルス)は、朝鮮二王子を捕らえてわしに突き出した。
咸鏡道鏡城(キョンソン)の役人・鞠里弼(ククギョイン)は、鏡城の判官(行政官)を捕らえてわしのもとに送った。
自分の立場をわきまえている。現実的で合理的。決して感情に流されない。日本人のくせに空気を読まない日本人は見習うべきである。
こうして易々、咸鏡道を制圧したわしは、法度を徹底させ、年貢を搾り取り、この地を短期間のうちに静謐に治めることができた。それは、わしの実力というより咸鏡道の人々が賢いゆえである。
そんな矢先、ここ咸鏡道に義兵抗争が起こり、鏡城が落とされた。しかも義兵らは、民族の裏切り者は誅殺すべしと、鞠里弼ら一三人らを斬刑に処した。どうしてそんなひどいことができるのであろうか。
義兵の首謀者の名は鄭文孚(チョンムンブ)。
わしは以前より官吏はことごとく突き出すように達しを出していた。文孚はこれまでの役人のように刑杖を用いることのなく、人望の厚い役人だった。
文孚は人々にかくまわれていたので、鞠里弼が文孚を探すもついぞ見つからなかった。鏡城を落とした文孚ら義兵は、この余勢をもって吉州(キルジュ)城を包囲した。
安辺(アンビョン)に本陣を置くわしは、直ちに救援に向かわねばならない。しかし捕らえた朝鮮二王子が足かせになっている。救援に割ける兵力は三〇〇〇。
鄭文孚は、この加藤清正に闘いを挑んだのであった――
カテゴリ:加藤清正くんの日記 | 2017-06-05 公開
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