豊臣秀吉くんの日記:第30回 うらみを見よや 羽柴御前
天正一五年九月七日
「昔より 主をば内海の 野間なれば うらみを見よや 羽柴御前」
織田信孝(のぶたか)は、信長公の三男にして四国方面の優秀な部将であった。しかし信長公死後は柴田勝家に与(くみ)した。
わしは天正一一年四月に越前で勝家を討ち、同月信孝には尾張国知多郡内海(うつみ)の野間大坊(大御堂寺)に移ってもろうた。
そこはかつて源義朝公が入浴中、寸鉄を帯びず、家来に殺された場所――
「“(九州征伐のため)九州に至る道を作るべきこと”というのはまだわかるが、”(方広寺)大仏殿のための材木のこと”はいい加減にせえよ。しかも”高麗へ渡海のこと”とは何じゃ。わしは目がわろうなったか。」
と毛利輝元は、わしからの天正一四年十日付の書状を近づけては離し、目をこすった。
「(天正一五年)三月三日 高麗、南蛮、大唐までも侵入すべしと聞こえたり。そもそも一大事の企てで、前代未聞のことなり。」
と興福寺の学侶・多聞院英俊は日記に記した。
「九州のことはことごとく平らげ早く暇になったので、高麗国に至りたい。そのため忠勤に励み、人質として実子(義智)を差向けよ。遅れることは不可である。」
とわしの同年五月四日付の書状を、対馬国の宋義調(よししげ)は受け取った。
「慶尚左水使(朝鮮国水軍将)が慎んで申し上げます。日本国の橘康広(対馬宗家家臣)曰く「日本国は乱れ混乱しており、これをよく見通すことはできません。改めて新王を立てたので近く通信することを欲します。」」
と慶尚左水使は、高麗王(朝鮮国王 宣祖)に同年九月七日付で文書で告げた。
「昔より 主をば内海の 野間なれば うらみを見よや 羽柴御前」
と野間大坊で自刃した二六歳の織田信孝。
あっぱれな最期。
しかし権力に逆らったところで無駄なこと。
次は誰に教えてあげようか?
カテゴリ:豊臣秀吉くんの日記 | 2020-01-30 公開
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