豊臣秀吉くんの日記:第36回 乙卯倭変の辺協将軍


豊臣秀吉天正一七年八月一五日

朝鮮国王・宣祖三八歳は、夕方の講義において綱目(資治通鑑綱目)に進む。(中国三国時代の魏の人)鍾会(しょうかい)の頁にて宣祖は、辺協(ピョニョプ)将軍六二歳に問うた。

兵家曰く、客主(敵と味方)の勢が同じであってならない。蜀をもってこれ観れば、即ちどうして同じでないことがあろうか。

乙卯倭変(天文二四年五月の倭寇襲撃)に南岸県監として大勝利した辺協将軍は、国王の問いに答えて曰く

予め防備をなし、余裕をもって疲労した敵を迎えて戦う。ゆえに敵と味方の兵数は異なります。

蜀は即ち城の守りを厳しくせず、こうして鍾会はにわかに城内に入りました。これこそ憂慮すべきで、即ち蜀は却って客となりました。

いにしえの我が国はよく城を守る。しかるに今は即ち一二日も支えることができない。則ち散走するは何たることか。

(1231年9月モンゴル高麗侵入に際し)朴犀、金慶孫の両将軍らは(平安道)亀州を守り撃退。国王が既に降参するに至るも、堅守して降りず、ただよく人心を得ること在るのみでした。

唐代の張巡将軍もまた、独り孤城を守り、軍卒ことごとく死んで、ただ残り二〇余人なるも降りない。兵、多しといえども、人心を得なければ即ちどうしてこのようにできましょうや。

 

然るに乙卯年、倭寇が侵攻した際、李徳堅は降参するが卿(上官)はこれを知らなかったのか。

辺協

辺協将軍_乙卯倭変

五月初九日、監司(観察使・行政官/従二品)金澍は(全羅道)海南に入り、康津に向かいました。私めは、軍糧見積もりをもって夜半に到着、たちまち賊が襲来すること報じました。

監司は、精兵を選んで(全羅道)達梁を救おうとされました。私は百余人を率いて出発。兵使(兵馬節度使/従二品)は私をして魚闌を救わせました。

賊は達梁を囲み、村落を放蕩し、煙と炎は天に漲(みなぎ)ること三日、達梁は落ちました。(賊に降伏したが脱出した)李徳堅は裸身で来て曰く、

『賊とその処において決する。もって起兵してこれをその地に待つべし。』

私はその言を監司に報告。監司は明宗国王に李徳堅を斬ることを申し上げました。

高麗(朝鮮)の君臣が論議していた時、わしはわが子・鶴松を抱いて、べろべろばあ!を繰り返していた。

高麗王に参内を要求したことも、すっかり忘れて――

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