第二部 侍韓流ドラマ

戦国デイズ – 武将たちの日記

藤原惺窩くんの日記

藤原惺窩くんの日記:第27回 志学


西笑承兌

慶長三年六月五日 私は幼い頃に仏門に入り、一八の時に父・冷泉為純の戦死をきっかけに、京の相国寺普広院住職の叔父を頼って上洛。 相国寺は禅寺だが、何故か儒学隆盛で私はここで漢学を学ぶこととなった。 いまだ喪は明けず、初めか… [続きを読む]

藤原惺窩くんの日記:第26回 淇奥(きいく)


赤松広通

慶長三年六月三日 「瞻彼淇奥(かのきいくをみれば)」 「緑竹猗猗(りょくちくいいたり)」 「有匪君子(ひたるあるくんしは)」 「如切如磋(せっするがごとく さするがごとく)」 「如琢如磨(たくするがごとく まするがごとく… [続きを読む]

藤原惺窩くんの日記:第25回 大迷惑


冷泉為将

慶長三年五月二八日 播磨から上京し、実家の冷泉家を訪ねた。 塀の外からぴょこぴょこ飛んで中を覗いてみると、庭に小さな池とクチナシの花と朝顔を見るだけで人影が全くない。 誰もいないのかな。もう一度、塀の外から顔を覗かせてみ… [続きを読む]

藤原惺窩くんの日記:第24回 束脩(そくしゅう)


赤松広通

慶長三年五月一八日 かつての学び舎であった京の相国寺に書物を借りに京へ行った。数日空けていた播磨のあばら家の途について、私は言葉を失った。 戸は破られ、衣類は裂かれ、僅かな穀物は一つも残されていなかった。今にも崩れそうな… [続きを読む]

藤原惺窩くんの日記:第23回 刀なんかなくとも


ノリゲ

慶長三年五月一〇日 「惺窩はカンペキだから。」 広通様(但馬竹田城主・赤松広通)―― そんなことはありません。 書を借りるため相国寺を訪れたあと、京の骨董市で油を売っていたら、借りた本を盗まれた。   「志が高… [続きを読む]

藤原惺窩くんの日記:第21回 出逢い


姜沆

3月9日 天下の道無きや久し…(論語・八佾) 食べる物も余りないが、読む本もない…。 播磨のあばら屋で私は溜息をついて嘆き、かつての学び舎であった京の相国寺に赴くことにした。 相国寺において私は、かつての弟子の学侶に何か… [続きを読む]

藤原惺窩くんの日記:第20回 郷党


赤松広通と藤原惺窩

11月20日 但馬(兵庫県北部)の天空の城・竹田城。城主の広通様と私は、雲海かすむ城内の階段にいた。 「齋(し)を摂(かか)げて堂を升(のぼ)るに、鞠躬如(きくきゅうじょ)たり。」 と私は城内の階段を上る時、裾を持ち上げ… [続きを読む]

藤原惺窩くんの日記:第19回 博士・姜沆、日本に至る


姜沆

9月17日 明への遊学が失敗に終わり、播磨のあばら屋に戻って数ヶ月。 これから先どうしようと思っていたら、相国寺のかつての弟子らが私を訪ね、漢学の教えを講うた。これ幸いと、私は弟子が持参してくれた食料や衣類などをもらい、… [続きを読む]

藤原惺窩くんの日記:第18回 朋有り、遠方より来る


木下勝俊

7月24日 明遊学に失敗して播磨に帰って来て間もなくのこと。若狭小浜城主・木下勝俊様が私を訪ねてくださったので、我があばら家周辺を勝俊様と散策、木陰で腰下した。 「惺窩先生に聞いたいことがあるのですが…」 と勝俊様は荷物… [続きを読む]

藤原惺窩くんの日記:第17回 弟子の育て方を間違えている


木下勝俊

4月23日 何かして生きてゆく糧を得なければならないのだが、私は自分の播磨のあばら家から出る気がなかった。 明への遊学を企図して、突風に見舞われて鬼界ヶ島に漂着。やっとの思いで本土に戻って来たら国賊として知らない者に京で… [続きを読む]

藤原惺窩くんの日記:第16回 孤独を選んで


赤松広通

1月26日 日本が敵と見なした明へ遊学しようとしたが、突風に見舞われて鬼界ヶ島に漂着。やっとの思いで帰国すると国賊として見ず知らずの人たちに暴力を振るわれた。 但馬(兵庫県北部)竹田城主の赤松広通さまの元で数日傷を癒し、… [続きを読む]

藤原惺窩くんの日記:第15回 覚悟


秋の光

11月23日 「藤原先生ではありませんか?!」 誰かの声が微かに聴こえた。天空の城・但馬(兵庫県北部)竹田城に至る山道の途中、私はいつの間にかここに倒れていたようだ。 「しっかりなさいませ。」と別の方は私に水を飲ませた。… [続きを読む]

藤原惺窩くんの日記:第14回 私の先生


赤松広通

10月1日 「惺窩はずっと一人でいてほしい。」 いつだったか、但馬(兵庫県北部)竹田城主・赤松広通様はそう私に言った。 「何ですか、それ。」 私は眉をひそめた。 「配偶者とか、味方とか、支持者とか、そーいうの、いらないで… [続きを読む]

藤原惺窩くんの日記:第13回 西笑承兌


西笑承兌

7月12日 鬼界ヶ島(きかいがしま)から約一年ぶりに私は、日本本土に帰って来た。 本来なら真っ先に但馬(兵庫県北部)竹田城主の赤松広通様に逢って、明に入国することが失敗したこと、然しながら私自身は無事であることをご報告す… [続きを読む]

藤原惺窩くんの日記:第12回 私が歓喜の声をあげた瞬間、あなたは捕らわれた


姜沆

5月22日 明へ遊学を企図するも、鬼界ヶ島(きかいがしま)に流れ着いて一年ほど過ぎた頃。 ついに、日本の船が鬼界ヶ島を通った。私は船を共にした仲間と一緒に助けを求めると、日本の船は素早くこれに応じた。 私が歓喜の声をあげ… [続きを読む]

藤原惺窩くんの日記:第11回 鬼界ヶ島の戦士


姜沆

2月17日 明へ遊学を企図するも、鬼界ヶ島(きかいがしま)に流れ着いて数ヶ月。 島民が数人、穀物もなく、舟も通らなかったけど、その分、私は久しぶりに自由を手に入れた。ここでは、 「日本のバカヤロー!」 と、どれだけ叫んで… [続きを読む]

藤原惺窩くんの日記:第10回 執念の待つ


藤原惺窩

12月19日 明へ渡ろうとするも疾風にあって、私はここ・鬼界ヶ島(きかいがしま)に流れ着いた。 この島で生活すること一か月。この島には、言葉のほとんど通じない島民が数人、穀物もなく、舟も通らなかった。 「もう死ぬしかあり… [続きを読む]

藤原惺窩くんの日記:第9回 明に恋して舵(かじ)を絶え


赤松広通と木下勝俊

11月9日 明への遊学を企てた私は、山川津(薩摩半島東南端の港)に到った。そして、ようやく出帆した明行きの船に揺られながら、私はふと百人一首の中の一句を思い出した。 由良(ゆら)のとを 渡る舟人 かぢをたえ 行(ゆ)くへ… [続きを読む]

藤原惺窩くんの日記:第8回 秀次事件と大地震と大戦争


豊臣秀吉with西笑承兌・加藤清正

9月20日 明へ遊学を企てた私は、今年六月に京都から薩摩に向かい、翌月に浜之市(大隈北部)で島津義弘様と伊集院忠棟様に面会、承諾を得て出帆。 ここ山川津(薩摩半島東南端の港)に到って、入明の船を待っていた。 その間、私は… [続きを読む]

藤原惺窩くんの日記:第7回 明渡海直前にすくむ足


空と海

7月17日 私は儒学を直接学ぶため、明へ渡海を企図。 京から薩摩・浜之市に至り、島津義久様・伊集院忠棟様に承諾を得て、本日いよいよ出帆することとなった。 しかし船に乗る直前、突風が吹き、雲行きはこれから先を暗示するかのよ… [続きを読む]

藤原惺窩くんの日記:第6回 島津義久と伊集院忠棟の共謀


7月7日 私は儒学を直接学ぶため明国渡航を企図し、先月京都を出立。 内海から東九州海岸を経て今月、薩摩・浜之市(はまのいち)に到った。 そして島津家筆頭家臣・伊集院忠棟様に面会すると、 「日本軍、朝鮮再出兵となりかねない… [続きを読む]

藤原惺窩くんの日記:第5回 若狭国の歌詠みお殿様


木下勝俊

5月23日 儒教を学びにここ播磨から明に向けて旅立つ朝。 東から淡い日の光を浴びた粗末な庵の戸を閉めたその時、 「惺窩先生――ッ!」 と私を呼ぶ声が聴こえた。 振り返ると、北政所様の甥で若狭国(福井県)の殿様・木下勝俊様… [続きを読む]

藤原惺窩くんの日記:第4回 全ての人々を敵に回しても


赤松広通

4月18日 「儒教を学びに明へ渡海したいだと!?」 と但馬竹田城主・赤松広通様は絶句した。 竹田城の庭園において私は、幼馴染で弟子もある広通様の目を真っすぐ見て 「さようでございます。」 と答えた。 「文禄の役が終わり今… [続きを読む]

藤原惺窩くんの日記:第3回 忘れられない通信使


許筬(ホソン)

3月24日 不図(はらざりき(論語 述而)/カルチャーショック)とはこのことだろうか? 日本軍が朝鮮に侵攻する二年前、朝鮮通信使が来日した。 この時、僧の私は彼らと交流する機会を得た。 通信使が着ている華やかな衣服、数百… [続きを読む]

藤原惺窩くんの日記:第2回 天空の城の赤松広通


赤松広通

2月23日 私は藤原定家十二世の子孫で、冷泉為純の子として播磨(兵庫県南西部)に生まれた。 幼い頃に但馬(兵庫県北部)景雲寺に入って僧となり、十八の時に戦乱で父と兄を失い、相国寺普広院・住職の叔父を頼って上京。相国寺入っ… [続きを読む]

藤原惺窩くんの日記:第1回 私のソンセンニム


姜沆

1月25日 「どこに行かれるのです?」 私は本日、伏見城内から梯子をかけて塀を越えようとする、大きな風呂敷を背負った姜沆(カンハン)先生を見つけて驚いた。 「ちょっと散歩しに。」 と先生は朝鮮語で答えた。 私は朝鮮語がわ… [続きを読む]